講演会のふり返り
10月17日、第77回全国連合小学校長会研究協議会(福岡大会)の講演を聴かせていただく機会に恵まれました。この講演には、全国から2200名の小学校長が福岡に集まったと聞いています。講師は、聖家族贖罪堂彫刻家の外尾悦郎氏。講演タイトルは、「志す」。釈迦に説法かもしれませんが、簡単に講師を紹介させていただきますと、外尾悦郎氏は、スペインバルセロナの世界で唯一と言われる建築途中の世界遺産サグラダ・ファミリアの主任彫刻家です。今年5月にテレビ出演もされた、たいへん著名な方です。今回、全国校長会の福岡大会ということから、高等学校卒業まで福岡で過ごされた外尾悦郎氏に講演を依頼した経緯があるようです。
さて、本題に入ります。講演の中で、「ふるさとを強く持っている人は、いくらでも遠くに行ける。」と話されました。この言葉は、非常に印象的に頭に残りました。なぜでしょうか。それは、日本を飛び出して海外で活躍している方ですので、ふるさとを口にされることに意外性を感じたからです。その後も、「海外の仕事でいろいろな困難に直面したとき、最後に救ってくれたのは結局、ふるさとであった。」、とも述べられました。これを聞いた時点で、ふるさとは単なる場所のことを言われているのではないと気づきました。鈍感ですね。
講演の中盤で、ようやく、「ふるさととは学校である」と、ふるさとを定義付けされました。この言葉を聞いて、講演の中の話がすべて繋がり、納得できました。さらに、続けて、「ふるさととは学校、先生一人ひとりがふるさとである、教育は人を幸せにする、学校で伝える話や言葉は、子どもにとって非常に重要な意味を持つ。」このように話をされて、学校教育が如何に大切かということを力説されていると感じました。全国連合小学校長会に招待されての講演ですので、リップサービスの面があるかもしれません。
ですが、「大人になった今も、精神的には小学生のままである。」という趣旨のことも言われました。これは、リップサービスではないと思います。これに似た感覚をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。私も、今の基盤は小学6年生の時にほぼ出来上がったと思っています。この言葉は、「大人が子どもたちにする話は、子どもたちのふるさととして大人になっても残る。」ということを言われたのだと解釈しました。学校に携わる者として、非常に重い言葉と受け止めています。ふるさととして残るのは良い言葉だけではないことも、理解しておく必要がありますね。
学校がふるさとであれば、その学校を構成する先生一人ひとりがふるさとに成り得るという言い方は論理的であり、この考え方に共鳴しました。子どもたちのふるさとになりたいと思います。子どもたちに話したいこと、伝えたいことが、たくさんありますが、話の重み、言葉の重みを熟考したうえで、子どもたちのふるさととして相応しい内容や言葉を選択して話をしていきたい、その思いを強くしました。
たいへん貴重な講演を聴かせていただき、講師の外尾悦郎氏とアテンドされた事務局の方に感謝申し上げます。ありがとうございます。